横浜捺染の歴史
日本の木版の技術は、仏教美術として奈良時代の千体仏などの作品として残されています。 これらの技法が絵画として江戸時代の浮世絵版画に継承され、日本における木版の技法はこの時代にほぼ完成されたといえます。
一方、ヨーロッパでは、12世紀になってようやく中国の製紙法が伝えられ、同じ頃東洋の木版の技法も伝えられました。 この技法は瞬く間に全ヨーロッパに広がり、色彩木版技法、木口木版などの新しい技法も開発され、大いに発達することになりました。 19世紀には日本の錦絵がヨーロッパに伝わり、洋の東西を問わず発展して、やがてはスクリーン印刷、捺染へと発展して、芸術作品から工業化への道を歩むことになったのです。
おりしも日本は19世紀後半から、20世紀にわたって閉ざされていた海外との交易が解放されて、横浜港が開港され、貿易立国をめざした近代国家に変身しました。 当時、蚕糸産業は日本の一大産業でしたが、シルク製品は以後50年にわたり、戦争時代をのぞいて輸出品の首位の座を占め、そのほとんどが横浜港から出荷されました。 シルクの集散地であった横浜が、気象条件、水資源に恵まれて、プリント加工の一大産地として形成されたのは必然であったといえます。
横浜の捺染技術は東西の優れた木版技法を取り入れて発展し、現代では近代的なスクリーンプリントとデジタルプリントに転換されましたが、 そのかげには日本各地の染め産地から繁栄の横浜に集まった技術者たちが技術を競り合い、また貪欲なまでに海外の知識を吸収して現代の横浜捺染の優位性を確立した歴史があります。
横浜スカーフの誕生
1934年 絹ハンカチの輸出業者であった棚田勝次が、外国雑誌でスカーフを知り、ハンカチの絵柄を拡大してスカーフを作ったことがきっかけで、輸出されるようになりました。
1937年 横浜には75工場があったが、時代は戦争へと向かい、あらゆる産業が軍需品生産への転換を余儀なくされ、工場の85%は整理され、残った工場もシャツやパンツを作る軍の衣料工場に変わりました。
戦後、捺染業者が焼け跡にバラックを建て、進駐軍兵士の好みそうなハンカチを手捺染で染めて商売をはじめたのです。これが婦人将校の目に留まり、NYのデパートに送られ、本格的な輸出のきっかけとなりました。
1950年ごろの図案のトレース、染料の調合、染色、縁縫の様子